愛媛県八幡浜市にその地元紙「南海日日新聞」(休刊)はありました。
代表の斎間満さん(故人)は、反原発運動に取り組みながらその地元紙を経営。記者としても活躍されていました。小さな新聞社で記者も3人。原発からの恩恵に浴する地域で反原発を貫くことは、経営面を考えてもどれほどの苦労があったか。私には、先輩記者としてよりも、その生き方にいつも頭が下がる思いでした。
東京地裁は先日、東京電力福島第一原発事故をめぐって、株主48人が旧経営陣5人に対し損害賠償を求めた訴訟で、元会長ら4人に連帯して13兆3210億円を支払うよう命じました。東電が巨大津波を予見できたはずが対策を「先送り」して事故を招いたと認定したのです。
え?
国の安全審査が不十分だとした愛媛の伊方原発訴訟など、それまでの原発訴訟はことごとく裁判所に退けられてきました。それが東日本大震災以降は一転しました。原発の安全にお墨付きを与え続けていた司法は、なぞこうも容易に判断を変えることができるのでしょうか。
巨大津波のために電源喪失が起こり、原子炉融解(メルトダウン)が起きた深刻な事故が起きたことを理由とするならば、事故が起きた“証拠”で判断するならば、私にでも判断はできます。いったい、斎間さんたちの指摘を無視し続けた司法の責任はどこにあるのでしょうか。13兆円の連帯責任に裁判官らは何を思うのでしょうか。
リスクを持つ様々な事柄に対して100%安全を担保することは、非常に困難です。私たちが重症心身障害者の支援のなかで取り組む医療的ケアも同様です。一生懸命にやったとしても、あってはならない失敗はあり得ます。その失敗を100%を避けるためには、ケアに取り組まないことです。しかし、その時、重症心身障害者の方々の生活はどのように支えることができるでしょうか。
原発と医療的ケアとでは、代替性の有無などまったく判断の根拠は異なるでしょう。しかし、“もしも”の時、司法はどのような判断をするのか。安易な手順のミスを指摘して支援者が委縮するような判断だけはしてほしくありません。(Z)